岩崎青年は懸命にウィンチを回し続けました。
ウィンチは巻き取る力を増幅するため、大きさの違うギアを何重にも噛み合わせてあるのですが、上空は風が吹いているらしく、ロープが左右に動いて思うようになりません。足元の先生も邪魔でした。汗が滲んで目に入り、青年は何度も手の甲でしたたる汗を拭いました。児童たちは上空の義経くんやお兄さんに声援を送るのに夢中です。

 「良かった。もう空へ飛んで行ってしまったかと思ったよ」
子供たちをよけて、熱帯魚のおじさんが帰って来ました。
「水素は地球上で最も軽い気体だからね・・ああ、これはいけない」
おじさんは上空を見上げてつぶやきました。

義経くんは空の高みにぽつんといて、全身でロープの束にしがみついています。風で微妙に揺れていました。泣きもせず叫びもせず、体が固まっているようです。この状態が続けば緊張と恐怖で意識を失ってしまうかもしれません。
「大丈夫かーっ!聞こえたら返事をしなさーいっ」おじさんは大声で叫びましたが、義経くんは聞こえていないのか余裕が無いのか、身動きひとつしませんでした。
焼きソバのお兄さんはロープの中間ほどに上がっています。最初はスルスルと調子が良かったのですが、揺れと疲れで、見るからにペースが落ちていました。

 「岩崎くん、疲れただろう。交代するよ」
おじさんは倒れた先生を挟んで、岩崎青年の前に進みました。
「警備にも連絡したし事務所にも連絡した。警察にも消防にも電話したからね。もうすぐ助けが来るはずだ」
「いえ大丈夫です。それよりこの人を少し移動して貰えませんか?力が入らなくて」
岩崎青年は汗を拭いながら、八木先生を見ました。帽子が良かったのか額の傷は思ったより深く無さそうです。今は女子児童の誰かが当てた濡れハンカチで隠れていました。

 おじさんは、いつの間にか集まっていた大人たちに目を向けました。切符切りのお姉さんと売店のおばさんが二人ずつ、水色のシャツに黄色い帽子を被ったアルバイトのお兄さん数人がいて、酔っ払ったサラリーマンや浮浪者も来ています。手でひさしを作って義経くんたちを見上げていました。
「キミたち、ちょっと手伝っておくれ。この人を動かそう。脳震盪を起こしてるから、ゆっくりそっとやるんだ」おじさんの指示で八木先生は脇へ移されました。酔っ払いや浮浪者まで手伝おうとしました。先生は降ろされるとき、ううっとうめきました。
岩崎青年は、腰に力が入るようになって、ここぞとばかりにウィンチを回し始めました。

 「さあキミたち。次は、中へ行って小波さんの指示に従ってくれ。電話中だったがすぐ終わるだろう」
おじさんは大人たちに言いました。「屋上は一時的に閉鎖されるそうだよ。この人たちは業務用エレベーターか階段で降ろしてくれ」酔っ払いと浮浪者たちを見ました。
「乗り物は止めたほうがいいか聞くんだよ」おじさんはさっそく誘導を始めた青年たちの背中に叫びました。

 「さて、問題は・・」
おじさんは、児童たちに目を向けました。相変らず声を張り上げて義経くんやお兄さんに声援を送っています。
「キミたちも避難しないといけない。全員エレベーターへ・・」
誰も聞いていないか、聞こえないふりをしていました。
「話を聞きなさーいっ!」おじさんは怒鳴りました。今度は児童全員が黙りました。
みっちゃんが一歩進み出て、おじさんを見ました。
「よっちゃんはぼくたちの声を聞いています。ぼくたちの声が聞こえなくなったらとても寂しいと思います」
「そうだよ。弱ってる時はお互いに声を出し続けることだってキカンチョーも言ってたぞ」吉田くんも珍しくみっちゃんに同意しました。
「俺、木登り得意なんだ。俺が登って助けてやる」石井くんが言いました。
「ぼくも行きます!」みっちゃんも言いました。
「バカなことを言うなっ」おじさんは怒りました。
「とにかく、もっと後ろへ下がりなさい。声はそこからでもかけられるだろう」
おじさんは、手を開いて、皆を下がらせようと押しました。
「わたし学級委員なんです。義経くんを助けたい」女子の田中さんが進み出ました。今にも泣き出しそうに涙が溢れています。
「ああ、わかった、わかったよ。だからもう少し下がりなさい」おじさんは、困った様子で皆を下がらせました。

 その時です。突然八木先生が起き上がり、叫びました。
「よしつねぇぇぇ、今いくぞぉぉぉほ」
よろけてニ三歩下がりました。目の焦点が合っていません。ハンカチが落ちて、紫色に腫れ上がった額から血が流れています。それでも先生は「よひつねぇぇ」と叫び、上履きのような靴のかかとを抜こうとして、今度は前へつんのめりました。
児童たちがせんせーっと叫び、駆け寄りました。
「ハッ!ハッ!」
先生はかかとを抜いた靴を勢いよく飛ばして脱ぎ捨てました。
「あっ!」
岩崎青年が驚きの声を上げ、先生を振り返りました。
ガッという鈍い音がしてウィンチが止まりました。ギアとギアの間に、先生の靴が片方すっぽり入って噛み込んでいました。

 驚いたおじさんが駆け寄り、靴のかかとを引いたり押したりしながら、ギアの間から抜こうとしましたが、布地の靴は中ほどまで食い込んでいます。岩崎青年はウィンチを小刻みに動かしたり戻したりしますが、全く動こうとしません。二人が力任せに押したり引いたりしているうち、今度はガリッと変な音が聞こえました。

 「あ・・・」
岩崎青年は急に軽くなったウィンチをカラカラと回し続けています。呆然としていました。
ウィンチのハンドルは凄い勢いで回転していますが、ロープは微動だにしません。どうやらどこか手前のギアが欠けて壊れたようです。

 先生はその間、ふらふらしながら立っていましたが、突然ハッ!ホッ!とジャンプし、宙でなにかを掴む動作をしました。二度目で着地に失敗し、児童たち数人を巻き込んで、おじさんの背中をすり抜けると、ウィンチの土台で顎を打って倒れました。

 静まり返った屋上に、モノレールやメリーゴーランドの音楽が悲しく響いています。
岩崎青年、熱帯魚のおじさん、児童たち。みんな呆然と上空を見上げていました。義経くんを助ける道はもう焼きソバのお兄さんしか残されていませんでした。