最初のうちは、振り返ってみっちゃんたちに助けを求める余裕もあった義経くんですが、アドバルーンは空へ空へと際限なく上昇を続けます。だんだん風も強くなって来て、頬や髪に容赦なく吹きつけました。アドバルーンも揺れており、自分のしがみついているロープときたら、たわんだり戻ったりで、しっかりしがみついていないと振り落とされてしまいそうでした。
どこまで上るのか、雲の上まで行ってしまうのか。このまま戻れないかもしれない。義経くんは心細くて不安で震えが止まりませんでした。

 みんなの声がとても小さく聞こえていました。あんなに賑やかだった屋上の音楽も今はあまり聞こえず、空の高みは風の音だけが耳を打つとても寂しいところです。
義経くんは誘惑に耐えられず、ちょっとだけ目をあけて下を見てしまいました。とたん、全身に冷水をかけられたように血が引きました。

 電車がバスが車が豆粒のようでした。人のような形の小さなものが集まって、こちらを眺めているような気がしました。表情などさっぱりわかりません。そこまで落ちて行くような錯覚を覚え、義経くんは気を失いそうになりました。怖くて叫ぶこともできませんでした。

 しかもしかも、ロープの下に、あの怖い焼きそばのお兄さんが見えた気もします。あのお兄さんがロープを伝って近づいて来たら、それよりロープから落ちてしまったら。どちらもとても怖いことのように感じ、義経くんは必死に目を閉じロープにしがみつきました。太ももの裏側と肘の内側が硬いロープで擦れ、ヒリヒリしました。

 急に上昇が止まり、強引に引き戻されているような揺れを感じました。
何が起こっているのか確かめたい気もしましたが、今度下を見たら本当にそのまま落ちてしまいそうです。義経くんは、組んだ両手をギュッと握り締め、頬をロープに押し当てました。
 
 「田中さーん」救急箱を探しに行っていた女子児童数人が戻って来ました。
エレベーターのお姉さんも一緒にいました。あと数名いる男の人たちはガードマンのようです。VANのシャツとズボンを着たおじさんもいました。小柄でとても痩せていました。
「おお、山崎さん、あんた子供たちについててくれたのか」
熱帯魚のおじさんが、VANのおじさんを迎えました。
「岩崎くん、園芸の山崎さんだよ」岩崎青年は、知っているというように軽く頷きました。
「子供たちが走って来るのが見えたものですから・・これはずいぶん上がりましたねえ」VANのおじさんは手をかざして上空を見上げています。「上へ参りマー・・した・・」エレベーターのお姉さんが小声でつぶやきました。手のフリはありません。

 「警備担当、東京パトロール社主任の宇津井です。後は我々に任せ、安全な場所に避難して下さい」年長のかっこいい男の人が上空を見上げていいました。ガードマンと印刷された腕章をはめています。
刑事さんだっとみちあきくんが期待を込めていいましたが、違うよザ・ガードマンだよと大岩くんが訂正していました。ザは余計です。

 「そのハンドルは・・」
主任さんがウィンチの前にいる岩崎青年に何か言おうとしたので、青年はウィンチをカラカラと回し、壊れましたと先に答えました。
とたん主任さんはキッと振り返り「藤巻、川津、寝具売り場からマットレスと布団を残らず持って来い!」と叫びました。二人のガードマンが頷いて走り去りました。それから主任さんはトランシーバーでどこかへ連絡をとりました。
「清水さん、宇津井です。寝具売り場のマットレスと布団を残らず持ってくるよう指示しました。デパート側に話を通しておいて下さい、どうぞ」「ええ、子供の命より布団が大切なデパートなんかあるもんか、それから誰か責任者を寄越して下さい。こんなことにうちの奴らを使っていたら効率が悪い、どうぞ」
主任さんがトランシーバーのボタンを離すたび、くぐもったおじさんの声がガーガー聞こえていましたが、なにを言っているのかまではわかりません。その間も、残りのガードマンたちはロープを引いてみたり、子供たちを下がらせたりしています。
「は?あけぼの機関?なんですかそれは?どうぞ」「国連の秘密・・なんですか?どうぞ」「忍者?あんたなにを言ってるんだ、忍者でも侍でも、上の二名を助けられるものがいるんなら早く寄越してくれっ!それから警察と消防が空気マットを持って来ているか確認してくれっ」
「なにか?」キッとトランシーバーを睨んだ主任さんに、他のガードマンが聞きました。
「忍者部隊・・月光て知ってるか?」ガードマンさんは肩をすくめてみせました。

 「この方は?」
警備主任さんはウィンチの下でうつ伏せに倒れている先生を抱き起こしました。
「しっかり、しっかりして下さい!」
「頭を打ってるから動かさないほうがいい。この人は引率の先生だ」
熱帯魚のおじさんはイヤそうな顔で先生を見ました。額が焼餅のように膨れて真っ赤でした。
「警察救急消防は間もなく到着するでしょう。すみませんが、先生に代わってあなた方で生徒たちを誘導して下さいませんか」
「店を離れるわけにはいかない」
「現在、お客さま用のエレベーターは一時的に使用禁止にしてあります。7階から屋上へ続く階段も金柵を置いて塞ぎました」
「この子たちの声援であの子は意識を保っているんだ。今、この子たちを離してはいけないよ」熱帯魚のおじさんは、懸命に声援を送り続ける児童たちをかばいました。
「じゃあ一体、あの子たちは何をやってるんだ」ガードマンの一人が、観覧車のほうを指しました。
子供たちがアドバルーンのひとつを、鈎のついた棒でたぐりよせていました。みっちゃん、吉田くん、石井くん、ヒロシくん、古賀くん、ヒロキくんの6人がいつの間にかいなくなっていることに、熱帯魚のおじさんも岩崎青年も初めて気がつきました。
「中条さん、連れ戻してくれ」中年のガードマンが走って行ったので、熱帯魚のおじさんと岩崎青年も後を追いました。

 その時、ピカッとなにかが光りました。
「すみませんすみませんっ、毎日新報の江戸川です、どいてください、通してね」
ハンチング帽のかっこいいお兄さんとラゴンのような顔のすてきなお姉さんが走ってきました。お姉さんは大きなストロボ台のついたカメラを構えていました。
「ほらみろ、あの留め金は随分いいかげんだと言っただろ」お兄さんがお姉さんに言っていました。
「あの少年は誰ですか?なぜあんなところに上っているんですか?」お姉さんはそれに答えず、矢継ぎ早に質問しました。誰に言っているのかわかりません。
「こんなところに人が倒れているぞ由利ちゃん」仰向けにされた先生をお兄さんがみつけました。お姉さんのストロボがズポズポと音を立てて光り大忙しです。
「淳ちゃん、マンモスフラワーの時みたいにセスナ飛ばせないの?」
「これは散布じゃなく人命救助だからな。しかもこの距離では・・」
「そうよっ!セスナじゃなくヘリを飛ばせばいいわ!」
「なんだねきみたちはっ」
怒った警備主任のおじさんは直接ストロボの光を浴びて顔をしかめました。
「毎日新報の江戸川です。新聞よ」お姉さんはもう一度そう言って、アドバルーンの写真を撮り続けています。
「がんばれー!もうすぐだわよーっ!」お姉さんも子供たちに混じって声援を送りました。焼きソバのお兄さんは半分よりずっと上まで登っていました。