「山崎さん、ネットが広がらないようにアルミ線で固定して下さらんか」
熱帯魚のおじさんが、鳥よけネットを束ねながらVANのおじさんに指示していました。
「な・・なんですかこれは?」岩崎青年は目を見開いています。
ウィンチの周り一面は布団、マットレス、座布団、枕などで埋め尽くされており、目がチカチカするほどの白さでした。ガードマンの人たちやデパートの店員さんが裸足でその上に乗って、ロープを引こうとしています。ロープはアドバルーンのロープに結ばれており、どうやらみんなで引っ張ることで、外側に傾いたアドバルーンを屋内まで引き戻そうとしているようでした。店員さんの数も増えて賑やかです。少し離れた壁際で、エレベーターのお姉さんが八木先生を介抱しています。まだ意識は戻っていないようで、お姉さんが何枚かのタオルをバケツの水で浸し、にぎにぎしては交互にとっかえて先生の額を冷やしていました。熱帯魚のおじさんとVANのおじさんはその傍らで作業をしています。
「なんという壮大な眺めだろう」
熱帯魚のおじさんも目を丸くしていました。屋上にいる全員が12個のアドバルーンを掲げた児童たちを見て動きを止めています。
「あんた、ええと江戸川さんだったね、こんな時に不謹慎だが、写真は撮ったのかね?」子供たちの後ろからついてきたお姉さんに呼びかけました。
「いいえ、まだですわ」お姉さんは、あわててカメラを構えました。
「全く今日はとんでもない日だよ」熱帯魚のおじさんは、VANのおじさんの作業が終ったのを見て立ち上がりました。
「さ、みんなで運んできてくれたアドバルーンをさっそく取り付けようじゃないか。手早くやろう」
「手早くやろうって、これ、水槽じゃないですか。しかも60cmだ。舟ってこれだったんですか?」岩崎青年はとても不満そうです。
「木盥やゴムボートも考えたんだがね、山崎さんとも相談したが、ある程度の重さが無いと空中でひっくり返ってしまうんじゃないかと思うんだ」
おじさんの足元にあるのは、水槽を何重にも重ねた鳥よけのネットで包んだものでした。VANのおじさんが巾着の先を、広がったり閉じたりしないように、園芸用の曲がる針金で固定していました。
「しかしアドバルーンで支えることの出来る重量は36キロしかないんですよ。ロープの重さだってあるんだ。それに水槽に飛び込んだら底が割れて大怪我をしてしまう!」おだやかな岩崎青年の頬が紅潮していました。
「岩崎くん落ち着きたまえ。この水槽はガラスでもステンレスでも無いんだ。うちにはこんなものもあるんだよ」
VANのおじさんも立ち上がって、水槽の中が良く見えるようになりました。ネットに包まれた水槽の、鈍く光る底面が見えました。
「これは・・プラスチックですか・・」岩崎青年はギョッとしたようです。
「大阪のクローバー印、吉田製作所のアクリル水槽で、その名も淀というのさ。これなら飛び込んでも割れたりしないだろう。ステンレスの支柱も無い」おじさんは得意満面です。
「こんなに大きなプラスチック水槽があるなんて・・」青年は狐に摘まれたような顔でした。
「さあ、アドバルーンのフックを一面に三個ずつかけるんだ。早くしよう。針金もロープも山崎さんがきつく巻いてくれたから大丈夫だよ」
「ニューギニアで苦労しましたからね。大丈夫ですよ」おだやかなVANのおじさんの言葉に、思わず岩崎青年は一礼してしまいました。
水槽自体は太いロープでグルグル巻きにされていて、鳥よけネットから出たロープが傍らで山になっていました。どこもみな丁寧に頑丈に結ばれているのでしょう。
「最初にアドバルーンを持った子から順番だ」青年は時によろよろしながら待っている児童たちへ声をかけました。
「みんな!あの子を助けるのよ!」写真を撮っていたお姉さんが片手を高々と挙げて励ましました。
「おーっ!」児童たちも歓声を上げました。義経くんは上空でまだしっかりとロープに掴まっています。風もあまり無くなったのかアドバルーンは時折ゆれていますが、デパートの上へ戻っていました。
ガードマンや店員さんたちは、ロープを引くことで衝撃が伝わるのも避けていて、ほとんど何の役にも立っていません。その代わり、児童たちに代わって、義経くんや焼きソバのお兄さんに声援を送っていました。主任さんは相変らずトランシーバーに怒鳴り散らしています。いつの間にか、VANのおじさんが主任さんの横に立っていました。
江戸川お姉さんに導かれ、最初に古賀くんとヒロシくんが進み出ました。
熱帯魚のおじさんが、古賀くんの体に掛かっているロープ束の先端にあるフックをネットに掛けロックしました。
岩崎青年がアドバルーンのロープを握って、ヒロシくんの腕に巻いた一巻きを外すと、ロープの跡が真っ赤になって残っています。
続いて古賀くんの腕の一巻きを外し、肩からロープ全体を外して地面へ置きました。二人は痛いのをこらえて何も言わず、腕を振りながらその場を離れました。
アドバルーンは水槽の一箇所にフックされましたが、岩崎青年が片手でロープを握っているのでまだ空へは上がりません。
続いて、吉田くん石井くんが歩み出ました。岩崎青年はもう片方の手でロープを握り、二人は自分で、自分の腕に巻いたロープを外しました。岩崎青年の頭上で2mのアドバルーンが二個揺らいでおり、大きな影が青年の足元に出来ました。続いて大岩くんとみちあきくんを誘導したお姉さんが自らロープを持つと、店員さんの一人が来て、代わりますと言いました。
「借りて来たよ」VANのおじさんが、10人ほどの店員さんを連れて戻り、水槽の中に座布団を二枚入れました。
ちょっと前、このアドバルーン群を外すのに反対した初老のガードマンさんも来て、前方を見たままぼそぼそ言いました。
「念のため言っておくが、このアドバルーンを使うことは主任に頼んで許可を貰った。あんたたちが咎められることは無いだろう」
「ありがとう」熱帯魚のおじさんは素直に感謝しました。
それから、VANのおじさん、ガードマンのおじさん、江戸川お姉さんや岩崎青年によって、12個のフックはあっという間に固定されました。
最後の組のみっちゃんがロープを外されると、熱帯魚のおじさんが言いました。
「テストだ。乗ってご覧」
「はい!」みっちゃんは目を輝かせ、水槽に入って座りました。
おじさんの指示で、店員さんたちがゆっくりと各自が持ったロープを離し、アドバルーンを空へ飛ばしました。
12個のアドバルーンは一斉に上空へ舞い上がって行き、時にぶつかることもありましたが、決して絡み合うことはありませんでした。
ロープが伸び切ると、水槽の片側がガクンと先に持ち上がって、みっちゃんは驚き、立ち上がろうとしました。岩崎青年が水槽を押さえつけました。熱帯魚のおじさん、VANのおじさん、ガードマンのおじさん、岩崎青年が水槽の四方を押さえていたのですが、四人とも空に気を取られていたようです。
「大丈夫ですか?せーの、で行きますよ」お姉さんが言いました。
「せーの!」
お姉さんの掛け声で、四人は一斉に手を離しました。そして、みっちゃんを乗せた水槽は、ゆっくりとゆっくりと宙に浮かんで行きました。
「やったー!!」屋上にいた全員が喜び叫び歓声を上げました。
歓喜と拍手の中、みっちゃんを乗せた水槽はまるで地球に引力など存在しないかのように、ゆったりと浮かび上がって行きます。
しかし2メートルくらいまで上がったとき、水槽の気球船は止まりました。
主任さんが水槽から下に伸びたロープを掴んでいました。
「我々も全面的に協力します。急ぎましょう!」主任さんは言いました。
熱帯魚のおじさんが頷き、みっちゃんに声を掛けました。「大丈夫かい?」
でもみっちゃんは返事をしませんでした。ただ空を見上げていました。
「少年!答えなさい」岩崎青年も声をかけ、主任さんがしゃがんでロープを引きました。
「どうしたの?大丈夫?」
お姉さんがみっちゃんの肩を抱き、覗き込むと、なんと、みっちゃんは空を見上げたまま泣いていました。
「よっちゃんを・・・よっちゃんを助けて」
みっちゃんは誰に言うでもなく、つぶやきました。その声は小さく震えていました。
アドバルーンの群れより遥か上空にある、大きな大きなアドバルーン。そこに必死でしがみつく人形のような義経くんを見上げたまま、涙が頬を伝い、唇も小刻みに震えています。
「このままぼくが行きたいけど・・・でも無理だから・・、だから・・みんなでよっちゃんを助けて・・」
そう言うみっちゃんの声はとても弱く、色白の顔は更に血の気が引いていました。
お姉さんは思わずみっちゃんを抱きしめました。児童たちの何人かも笑顔が泣き顔に変わってしまいました。
「約束するよ。みんなで力を合わせよう!」岩崎青年が力強く答えました。
お姉さんと熱帯魚のおじさんが、みっちゃんを降ろしました。
「君も手伝うんだよ、いいね」
主任さんが、みっちゃんの頭を撫でて言いました。
「君達もだ」
主任さんは振り向いて、3年2組の児童たちにも声をかけ、みんな大きく頷きました。
こうして、義経くん救出作戦は、屋上にいる全員の手によって始まりました。
ロープの最初を主任さんや部下のガードマンさんが持ち、その後ろを熱帯魚のおじさんや岩崎青年、VANのおじさんやカメラのお姉さんが持ちました。そしてその後ろでロープを持っているのは、3年2組の児童たちでした。
水槽の気球船は空へ空へと上がって行きました。
皆の希望と切実な思いを乗せて。