「あの少年のすぐ下くらいに舟が来るところまで上げて、それから横へ近づきましょう。風でアドバルーン同士がぶつかったり、人に当たったりすると危険だ」主任さんが言いました。
雲は多いのですが、初夏の太陽は充分にまぶしく、空を見上げる屋上の人々や子供たちの目も自然に細まっています。
風はほとんど止んでおり、12個のアドバルーンに吊られた水槽の舟は、義経くんのいる空の高みに向かい、スルスルと上昇を続けて行きました。
「あの人はどうするの?一人で降りて来られるのかしら?」
お姉さんは、もう広告のノボリの上にまで到達した、焼きソバのお兄さんのことを言っているようです。
そう。それは誰もが疑問に感じていて、でも誰も言わなかったことでした。普通の人なら到底出来ないことをやっているわけで、並の人物で無いことは分かるのですが、それでも相当に筋力を使っている筈です。義経くんを舟に乗せる手伝いをしてくれたとして、その後、自力で降りて来られるのでしょうか?水槽の舟に大人は乗れないのです。
「支那ソバを炒めてはいるが、あの人はチャンピョンになる人だ。大丈夫だよ」
熱帯魚のおじさんが言いました。自分に言い聞かせているようでした。
「支那そばのちゃんぴょん・・。長崎の・・?」なんのことかわからず、岩崎青年は首を傾げています。
「それはチャンポン麺かもしれません」VANのおじさんが淡々と訂正しました。
下からの目測で正確にはわからないのですが、アドバルーンたちは、焼きソバのお兄さんの上あたりまで到達したように見えました。
「さあ、みんな、ロープを持って舟を止めるんだ!」
主任さんは全員を振り返り、いち、にの、さーん、と掛け声をかけました。みんなギュッとロープを握りました。
実際には、先頭に並んだガードマンさんたちが止めてしまっていて、そこから後ろの人々は握ってみただけです。
「よし、みんな、このまま平行に近づこう!ゆっくり移動するんだぞ」
その時、主任さんのトランシーバーからザーッと雑音が流れ、くぐもった声がなにかを叫んでいました。
振り返って、川津、後を頼むと言い、主任さんはロープを離して、一歩脇へ移動しました。
「はい、宇津井です。どうぞ・・、え?なんですか?、どうぞ・・、救助が!・・ゲッコー??」
どこからか、バリバリと爆音が聞こえて来ました。
「由利ちゃーん」
お姉さんの連れのお兄さんが戻って来ました。
「あっ、淳ちゃん、一の谷先生はなんとおっしゃってたの?」
お姉さんはロープを持ちながら、駆け寄ったお兄さんに顔を向け、ゆっくりと歩いています。
「うん、開発中の飛行装置を持って、今からタクシーで来てくれるそうだが・・なんだか凄いことになってるね」
お兄さんは水槽の救助船を見上げて驚いていました。
「これであの子を助けるのよ・・・淳ちゃん、この音はなんなの?」
バリバリと風をつんざく音が一段と激しくなりました。
「救助のヘリだ!」主任さんが、百貨店の裏、建物がある側を指差しました。
建物の上空から、ぬっ、と巨大な黒いヘリコプターが現れました。高度を下げながら、迂回して正面へ回りこんでくるつもりの様子です。そのヘリはドアが開いているか、あるいは最初から無いらしく、中から10mほどロープが出ています。ロープの先端に、人が逆さになって吊り下がっていました。ヘルメットと黒いシャツ、ピッタリした白ズボンに軍用ブーツまでハッキリと見えます。ブーツの足首に袋のようなものがついています。肩から脇にロープの束を巻き、背中にはなにか細長いものをさしていました。その上にリックサックを背負っています。
「こ・・・これが・・月光」主任さんが呆然とつぶやきました。
「キャップ!なんですか、これは!」今先頭にいる川津というガードマンが叫びました。
「国連の特務機関らしい!」ヘリの音が激しく、叫ばないとなにも聞こえません。
「だめだーっ!!」
戻ってきたばかりのお兄さんが、激しく両手を振り、ヘリに合図を送っています。
「そんな高さではダメだーっ!!煽られて子供が落ちてしまうぞーっ!!!」お兄さんは必死の形相です。
「やめてーっ!!」
お姉さんも列を離れ、両手を振って走り出しました。
「川津、急げっ!ヘリが来るまでに救助するんだっ!!」主任さんが列に加わり、皆、走るように布団やマットレスの上へあがりました。まっさらな白地に、くっきりと大量の靴跡がつきました。
焼きソバのお兄さんや、義経くん、アドバルーン同士がぶつからないよう、あせりながらも慎重な作業をしなくてはいけません。でも人が吊られたヘリコプターは一度通り過ぎて高度を下げながら旋回し、みるみる近づいて来ます。
「やめろーっ!!それ以上、近づいてはいけないーっ!!!」「やめてーっ!」「来るなーっ!!」
屋上に悲鳴が上がり、主任さんはトランシーバーにがなり立てています。それでもヘリは高度を下げたまま、どんどん近づいて来るのです。
「八木センセーッ!!」
女子の田中さんがいたたまれず、エレベーターのお姉さんに介抱されたままの八木先生に向かって走り始めました。
「先生、助けてっ!義経くんがっ!義経くんがーっ!!」
「先生、大変です。起きてください」エレベーターのお姉さんも遠慮がちに先生の肩を揺すりました。
「センセー!義経くんが危ないのーっ!」駆け寄った田中さんが先生の真上で叫びました。
その時です。八木先生の両目が、カッと見開かれました。
「あ、先生!」
お姉さんの隣りに膝まづく田中さんには目もくれず、スクッと先生は立ち上がりました。その両眼は空の義経くんだけをとらえています。
「よしつねーっ!!今、俺が行くぞーっ!」
先生はそう叫ぶと、ものすごいスピードでダッシュし、ギアの台を飛び越えてロープを登り始めました。みっちゃん始め児童一同が一斉に声をかけましたが、見向きもしませんでした。
しかし、ヘリはもうアドバルーンの真上付近に来ており、爆風でアドバルーンが急激に傾きました。
全員の高い悲鳴が爆音を切り裂きました。
焼きソバのお兄さんは、広告のノボリの支柱に乗り、休んでいました。
小さいときから木登りは得意だったのですが、ロープが細い上、浮かんでいるアドバルーンから下がっているので、突然たわんだり、ぶら下がるくらい傾いたりと、決して楽なものではありません。随分余分な力を使ってしまった上、こんなに高く上がるとは思ってもいなかったので、どうしたものか考えがつきませんでした。特に、広告の布地が広がっている部分を上がるのは、変な風を受けたり、まとわりついたりもして面倒でした。
やっとその部分も登り終え、広告を巻物のように支えている木の棒に両足を掛けてみると、なんとか自分の体重を支えるくらいにはきつく固定してあるようです。お兄さんは、上空を見上げ、一息つきました。義経くんはもう間近に見えています。まるで石像のように固まっていて、頬をロープの網に押し付けていました。
一見、回り道に思える経験にこそ、人との差が出るのだ。
ジムの会長が良く言う口癖が脳裏をよぎりました。お兄さんは満州に生まれ、高校の頃はラグビーをやっていたのですが、日大入学後、剛柔流の空手を始めました。みるみる才能を開花させたお兄さんは、全日本学生空手選手権で優勝、特に回し蹴りは誰にも真似出来ないほど華麗なものでした。ついに無敗のまま大学を卒業したお兄さんは、その才能を見込まれて、キックボクシングという新しい格闘技団体のジムにスカウトされたのです。
しかし現実は厳しく、新興格闘技であるキックボクシングという競技は全く世間から認知されていませんでした。単独では会場すら確保出来ないありさまでした。昼間アルバイトで日銭を稼ぎ、夕方からジムに通う毎日が始まりました。
本当は車の整備が好きだったのですが、いろいろな人生経験を積んだほうが良いと言う会長の言葉通り、職種は選ばず、雑多な職場を経験しました。
そして、遂にデビュー戦の日がやって来ました。
日本キックボクシング協会の旗揚げ興行で、お兄さんは初めてプロのリングに上がり、2ラウンドKOで勝ちました。強い相手ではありませんでしたが上々のデビューでした。沢村忠というリングネームもこの試合で初めて使いました。
ですが、順風漫歩に見えたお兄さんの夢は2戦目で脆くも潰えます。
タイ式ボクシング、ランク8位の相手と戦ったお兄さんは、奥歯を折られ、計16度のダウンで25箇所の全身打撲を負って入院しました。いくらアマチュアレベルの空手で強くても、異種競技であるキックのプロは決して甘い世界では無かったのです。
初めて味わった屈辱と無力感に、お兄さんは打ちひしがれていました。
プロとして自分には何かが足りない。退院したお兄さんは苦悩しながら、デパートの屋上でアルバイトを始めたのでした。
そんな中、一人の子供の命を助けるという行為は、とても重要な使命のように感じ、お兄さんは後先を考えずに行動していました。自分の中から湧き出てくるよくわからない高揚感に突き動かされていました。
しかし、どうやって助けたらいいのか。義経くんに近づくにつれ、お兄さんは途方に暮れてしまいました。腕がだるく、手も足も擦り傷だらけで、血が滲んでいました。義経くんに、背中へしがみついてくれるだけの力が残っていてくれるといいのですが、望み薄でしょう。この時間、落ちずに留まっていられるだけでも大したものなのです。
ふと何かが現れた気配を感じ、お兄さんは振り返りました。
すると、たくさんのアドバルーンが自分の後ろを通過して行くではありませんか!
そのずっと下から吊られた箱が上がって来ています。あれに子供を乗せたらいい。お兄さんは勢いづいてロープを上がろうとしました。
その時、あの黒いヘリコプターが来たのです。ぐるっと一周したヘリは、人をぶら下げたまま突っ込んで来ました。突風が吹きつけ、ロープがたわみ、傾いて激しく揺れ動きました。お兄さんは、両足を支柱にかけたまま、振り落とされないよう掴まるのが精一杯でした。
義経くんはまるでだっこちゃんのようにロープにしがみついており、時々、押しつけた頭がずれて垂れそうになりますが、必死で頑張っていました。腕も足もロープがきつく食い込んで、血の巡りが悪くなっており、感覚がありませんでした。ふと喉がカラカラに渇いていることに気づいたのですが、背中のリックから水筒を出すようなことも出来ませんでした。誰が見ても限界でした。
でも、不思議と義経くんから恐怖は消えていました。あまりにも張り詰めた神経がどこかでぷっつりと切れてしまったのです。
義経くんは、全身を硬直させ、揺れ動くロープに耐えながら、空を見ていました。薄く雲のかかった空は、それでも青く、広く、静かでした。
突然、なにか羽ばたくような機械音が聞こえ始め、その音はどんどん高まって行きました。
振り返るだけの体力も無く、ただ聞いているだけでしたが、やがて義経くんの視界にも黒いヘリコプターがその姿を現しました。人が吊られているのに気づき、義経くんは我に返ったかのように頭を上げました。
ヘリコプターは一旦は通り過ぎ、低空に降りて真っ直ぐ自分に近づいて来ます。そのローターの喧騒と、空を埋め尽くす黒い鉄の塊に、義経くんは恐怖を覚えました。
ヘリコプターの接近と共に物凄い風が吹きつけ、義経くんを乗せたアドバルーンはまるでおもちゃの風船のように煽られて、激しく揺れ動きました。手足が痺れ、感覚が無くなっていた義経くんはひとたまりもありませんでした。
「うわ〜っ!」
つなぎあって握り締めた両手が簡単に外れ、自らの重みで、義経くんはまっ逆さまに落ちて行きました。