全員の高い悲鳴が爆音を切り裂きました。
ガードマンさんたちは左右に揺れ動いたり手応えが無くなったりするロープに振り回されながら、その他の人々や児童たちは空いた片手を目の上にかざしながら、ハッキリと義経くんが落ちるのを目撃しました。女子は両手で顔を覆いました。二人のお姉さんの悲鳴は超音波のようでした。
空からの猛烈な風に押し戻されて12個のアドバルーンは四方八方へ散らばり、均衡の崩れた水槽の舟は横倒しになりました。義経くんと焼きソバのお兄さんを乗せたアドバルーンもまた、小刻みに揺れながら大きく傾きました。
最初の揺れでもう義経くんは落ちていました。突然の衝撃に反応する体力も気力も残っていませんでした。実際には、左足がねじれたロープの束に絡まって宙吊りになり、リックだけ先に落ちたのですが、オバQの靴がスッポリ抜けて、宙吊りになったのは一瞬の出来事でした。
「あ〜っ」爆風の中、義経くんは地上へ向け、頭から落下して行きました。
ボイ〜ン。落ち始めてすぐ、義経くんの背中に固い衝撃が伝わり、その体はわずかに弾んで方向を変えました。垂直に戻ろうとする12個のアドバルーンのうち、ひとつが当たって、クッションの役割を果たしたのです。
ヘリはもう方向を変えて飛び去っており、全てのアドバルーンは体勢を戻しつつありました。
ヘリが飛び去る直前、吊り下がっていたヘルメットの人は、腹筋の力でグイと上体を起こし、背中に手をやりました。その瞬間、キラッと銀色の輝きが一閃し、足のロープが切れました。両手両足をピタリと締め、ヘルメットの人もまた落ちて来ました。弾丸のような体勢でした。
「掴まれーッ!」焼きソバのお兄さんは、自分めがけて落ちて来たリックを交わし、続いて来る義経くんを受け止めようと、広告の支柱に両膝をかけたまま、身を反らすようにバンザイしました。
「うわーっ!」
義経くんは裏向きの逆さグリコポーズで頭から来ました。それから先の出来事はまるでスローモーションのようで、時の流れが遅く感じられました。
「うをーッ!!」
焼きソバのお兄さんはのけぞりながら、落ちて来た義経くんの背中をしっかりと抱きました。まず後頭部が腹筋を直撃しましたが、鍛えているお兄さんは平気でした。ハチマキがすっ飛びました。広告の支柱がお兄さんの体重と落ちてきた義経くんの勢いで外れ、二人はそのまま落ちて行きました。
お兄さんの両膝は支柱を挟んでおり、二人の後には布の広告が飛行機雲のように、子泣きじじぃを乗せた一反木綿のように、虹を描くふんどし男のように大きく弧を描いて続いていました。
一方、ヘルメットの人も群がるアドバルーンに突っ込んでしまったのですが、その前に大きく両手両足を開いて風の抵抗を利用し、微妙に方向を変えていました。そして空中で何か小さな黒いものを投げました。バスッ!バスッ!鈍い音と共に目前のアドバルーンが二つ弾けてロープごと落ちました。「ぐはっ」弾け散ったビニールの破片が当たったのか、ヘルメットの人は身をよじりました。
焼きソバのお兄さんの両膝に衝撃が走りました。今度は下側の支柱が外れる番でした。ところが下側の支柱はしっかり固定されてはおらず、外れないように支柱の両端から伸びた輪にロープを遠し、それを組み紐で仮止めしてあるだけでした。幸運なことに、風をはらんだ広告の布は、多少なりとも落下速度を緩めるための抵抗となっており、そのせいで組み紐が切れただけでした。支柱はロープを擦るように下がって行きました。おかげでしばらく二人は、半円の下弦部を描くような軌跡をたどりながら、なおかつズルズルと落下して行きましたが、ほどなく摩擦で輪が切れてしまい、お兄さんは、足を真っ直ぐにして、たなびく布地を離しました。
「科学忍法、蜘蛛の糸!」
ヘルメットの人は、腰の両側から出ている筒のようなものを下に向けて叫びました。その瞬間、片側の筒から凄い勢いでなにかが発射されました。それは先に何個か分銅のようなものがついたロープでした。先端がくもの巣のように広がったロープは焼きソバのお兄さんと義経くんめがけ飛んで行きます。
「どはあっ!」下から支柱と広告の布地が来て、ヘルメットの人は身をよじり、それを避けようとしました。しかし無残にも布地はヘルメットに絡みつき、顔にまとわりついてしまったようです。
「ふごおおおおっ」ヘルメットの人は、顔から広告の布地を剥がそうともがきました。
焼きソバのお兄さんは、上から何かが飛んで来るのを見ていました。
「ハッ!」お兄さんは脇に反れて行こうとしたロープに、腰から捻るような回し蹴りを食らわせました。その足にぐるぐるっとロープが巻きつきました。
「科学忍法、飛空!」
ようやく布地を外したヘルメットの人が、一旦開いた両足の踵をバチッと打ち鳴らしました。両足首の白い袋から何かが飛び出してひゅるひゅる上がり、バッと開きました。それはパラシュートでした。ガッと音がしたかのように、三人の落下速度が目に見えて落ちました。しかし、その二つのパラシュートは、大人二人と子供一人支えるには充分な浮力が無いようです。減速したとはいえ、それでも三人は相当な勢いで落ち続けています。
「科学忍法、蜘蛛の糸!」
ヘルメットの人は、腰の反対の筒を、大きなアドバルーンのロープに向けました。開いた分銅が射出され、ロープに絡みつきました。その瞬間、ぐいっとロープが張って衝撃が走り、義経くんを抱いた手が外れそうになりましたが、お兄さんはなんとか持ち堪えました。三人の落下は止まりました。
焼きソバのお兄さんと義経くんは、今度は振り子のように、アドバルーンのロープへ向かって行きました。落下する力が、横へのエネルギーに変わってしまったのです。間にパラシュートとヘルメットの人を空気抵抗として挟んでいるものの、依然そのスピードは危険なものでした。
軌道の通りならアドバルーンのロープに戻れます。その時、ロープを掴めたら幸運です。しかし掴み損ねたら勢い余って屋上の反対側、つまり屋外へ振られてしまうのです。お兄さんは、体重が軽いため浮き上がってしまう義経くんの体を離さないだけで精一杯でした。義経くんは鼻水と涙を風圧で顔中にはりつけながら後ろ手でお兄さんに抱きついていました。
もうすぐロープとの交差地点です。でもお兄さんにはどうすることも出来ません。お兄さんは背中から義経くんを抱いていて、両手がふさがっているのです。ロープを掴むのは、正面を向いている義経くんの役目なのかもしれません。ですが、後ろに回した両手は全く動きませんでした。義経くんの目はしっかり閉じられ、なにも見てはいませんでした。全身が硬直していました。
その時、声がしました。野太い声がよしつねぇぇぇぇっと呼んでいました。
聞き覚えのあるその声に、義経くんの両目が開かれました。
交差地点には、皆が呆然と嘆き叫び悲しむ間、黙々とロープを上がった八木先生の姿がありました。先生は両足と片手で自らを固定し、片手を広げ、腫れ上がった恐ろしい顔で叫んでいました。
「いやーっ!」義経くんはあまりの恐ろしさに両膝を上げてもがきました。お兄さんは義経くんの体を更にしっかりと抱きしめました。
まるでスローモーションのように、ゆっくりとゆっくりと、義経くんの片膝が、八木先生の顔面を直撃しました。
全ての衝撃が義経くんの膝から先生の顔に吸収され、怖い顔面にめりこんでいました。
三人、正確にはヘルメットの人を入れて四人、はまるで重力など無くなったかのようにしばらく静止していました。焼きソバのお兄さんは、小脇に義経くんを抱え、ロープをしっかりと掴みました。
「はがあっ・・・」
のけぞり、ゆっくりと先生は崩れ落ちて行きました。
ガードマンさんたちがあわてて移動し、なんとか先生を受け止めようとしましたが、あまりにもあわてて移動したので、先生を布団に落とした上、逃げ損ねて倒れた石井くん、吉田くんと、その後ろにいたエレベーターのお姉さんを巻き添えにして倒れました。お姉さんは発作的に二人のリックを掴み、中のなんだか柔らかい感触をもみもみしました。お兄さんから頂いた焼きソバはまだ、ほんのりと暖かでした。
「八木せんせーっ!」
田中さん始め、女子児童が倒れたままの先生を囲んでおり、エレベーターのお姉さんもあわててその輪に入りました。
ヘルメットの人は、背中から日本刀を抜き、自分の両脇から伸びたロープを無造作に切り離しました。吊られていた焼きソバのお兄さんは、片手で自らと義経くんの体重を支え、なんとか体勢を立て直しました。
ヘルメットの人はゆったりと落下しながら、お兄さんの上を通るとき、肩から脇へ巻きつけていたロープの束を投げました。ロープは狙いすましたかのように、お兄さんと義経くんの首にかかりました。
「端を固定して掴むんだ!」ヘルメットの人は、逆さのまま親指を立て、笑顔で降りて行きました。
義経くんは、巻かれたロープをほどくようにして、先端にある金具をアドバルーンのロープに押しつけました。シュッという音がして鈎爪がロープを挟みました。
義経くんは、首のロープを外し、地面へ投げました。下で、みんなが二人を見上げていました。みっちゃん、ヒロシくん、古賀くん、吉田くん、石井くん、岩崎青年、熱帯魚のおじさん、新聞社のお姉さん、たくさんの人たちが笑顔で両手を振っていました。みんな、泣きながら笑っていました。
義経くんは、やっとみんなの声が聞こえました。それはとても暖かく、優しい言葉でした。
おかえりとみんな叫んでいました。
義経くんの目からも、涙が流れ落ちて止まらなくなりました。
「その取っ手を掴んで、レバーを握るの」義経くんは言いました。蚊の鳴くような細い声でした。
「え?」焼きソバのお兄さんは驚いて、首に抱きついてる義経くんを見ました。
「テレビでやってた・・」
ああ、とお兄さんは頷きました。義経くんは自力でお兄さんにしがみつき、お兄さんは空いた片手で、金属の取っ手とレバーを握りました。
取っ手には、抵抗付の滑車のようなものが内蔵されているようで、、二人はスルスルとロープを滑り降りて行きました。
「ありがとう」
お兄さんは、義経くんにささやきました。
「キミのおかげで、必殺の決め技が出来そうだよ。真空飛び膝蹴りと名づけるつもりだ」
でも義経くんには、聞こえていないようでした。
やがて二人は地面に、正確には布団の上に降り立ちました。
「おかえり、よっちゃん」
みっちゃんが歩み寄って、義経くんの手を握りました。
うん、とだけ、義経くんは答えました。
言葉も無いまま二人は見つめ合い、固まっていましたが、やがてこみあげてくる何かに動かされるかのように震えはじめました。二人は手をとりあったまま、鼻水を垂らして号泣しました。
大きな大きな拍手と歓声が二人を包みこんで行きました。
ヘルメットの人が、降りて来ました。降りる直前、肩の日本刀で足のパラシュートを切り離し、クルッと宙返りしてやや後方に立ちました。
「月光、参上」
ヘルメットの人は、日本刀を上段にかざして決めポーズをした後、クルクルと刀を回して、背中の鞘に収めました。それだけで大道芸になるほど見事なものでした。
アミのかぶったヘルメットには月のマークが記されており、その下の顔は、ややぽっちゃりめの渋いお兄さんです。
「月光だ・・」ヒロキくんがつぶやきました。
「本当にいたとは・・」岩崎青年も驚いています。
ヘルメットのお兄さんが歩きはじめると、自然、人がよけて道が出来ました。
「ありがとう。あなたのおかげで助かりました」
ヘルメットの人、月光は、焼きソバのお兄さんに手を差し伸べました。
「この子のおかげさ」
焼きソバのお兄さんは、傍らにいる義経くんの頭を撫でました。そして、月光のお兄さんとガッチリ握手を交わしました。
バシッとフラッシュが焚かれました。
「そこのお嬢さん、写真は撮っても無駄です。国連から圧力がかかって嫌な思いをするだけですからね」
月光のお兄さんは、江戸川お姉さんに、ぎこちないウィンクをしてみせました。
「せっかくのスクープなのに」お姉さんはぶっとふくれていました。
「スクープは今日のことだけで充分じゃないですか」月光のお兄さんは笑って、空を見上げました。
アドバルーンは相変らず空を圧迫しており、小ぶりのアドバルーンが10個になった水槽の舟も並んで浮かんだままです。そのロープをガードマンさんたちの何人かが、ウィンチに巻きつけ固定していました。
そして、空へ、黒いヘリコプターが戻って来ました。
「それじゃあ」
歩き出した月光のお兄さんを児童たちが囲みました。
「毎週見てるよ、頑張ってね」みちあきくんが言いました。「ブラック団てほんとにいるの?」大岩くんが聞きました。「銀月さんはどこ?半月くんは?」石井くんも聞きました。
お兄さんは、笑いながら空のヘリコプターを指さしていました。
「あれやってよ、あれ」吉田くんがせがみました。
「よし、大サービスだぞ」
月光のお兄さんは突然振り向き、叫びました。
「バカッ!むやみに撃つな!拳銃は最後の武器だ。俺たちは、忍者部隊だ!」
その両手の指にいつのまにか十字手裏剣が現れて挟んでいます。魔法のようでした。いえ、忍法というのかもしれません。忍者なのでしょうし。
「じゃあな」
月光のお兄さんは笑って空を見ました。
黒いヘリが近づいて来て、またアドバルーンが狂ったように吹き飛びました。バリバリ爆音を立てる空の影に、みなしゃがみこんで頭を押さえました。
「ではみなさん、わたしたちのことは内緒です」
ヘリから垂れ下がったロープには、焼きソバのお兄さんが掴んで降りたのとおなじような取っ手がついていました。ヘリから何人ものヘルメットをかぶった人たちが頭を出して、手を振っていました。さようならーと叫んでいるようでした。本当はとても気持ちの良い人たちなのでしょう。だって正義の味方なんですから。
ぶら下がったままの月光お兄さんと、仲間たちのヘリは飛び去って行きました。
みんな、立ち上がって手を振り返しました。
片足のロープを解いていた焼きソバのお兄さんは、突然、義経くんを肩車して、「やったーっ!!」と叫びました。まるでタイトルマッチに勝ったかのような雄たけびでした。
わーっとみんな両手を挙げました。岩崎青年と江戸川のお姉さんが笑顔で握手を交わし、お姉さんの連れのお兄さんは、トランシーバーにがなりたてているガードマンの主任さんを無理やり振り向かせて手を握りました。熱帯魚のおじさんは、中年のガードマンと手を握り合い、VANのおじさんはエレベーターのお姉さんと笑顔で頷き合いました。ガードマンさんたちはタバコをくわえ、渋い笑顔を浮かべて空を見ていました。
店員さんたちは抱き合って喜び、男子児童たちはぴょンぴょン飛び跳ねてヘリに手を振り続けました。女子の田中さんは、再び意識を失った八木先生の片手を握り締めていました。その周りを女子児童が囲んでいました。
そしてみっちゃんは、両手を頭の後ろで組み、笑顔で義経くんを見上げていました。
遠くでサイレンの音がいっぱい鳴っていました。
たくさんのパトカーや救急車が駆けつけ、大騒ぎになりました。
八木先生は担架で運ばれ、義経くんと焼きソバのお兄さんは救急車に乗せられて病院へ行きました。熱帯魚のおじさんが付き添いました。
江戸川お姉さんは記事と写真を夕刊に間に合わすため新聞社へ帰りました。連れのお兄さんは一の谷先生を迎えるのだと言って去りました。
VANのおじさんとガードマンさんたちは警察の事情聴取を受け、エレベーターのお姉さんは児童たちをデパートの出口まで誘導しました。
そして、岩崎青年は、児童たちを引率し、学校まで送り届けました。校長先生自らが迎えてくれました。児童たちは疲れていましたが、とても高揚した気分で、喜びと誇りを胸に抱いていました。
そう。義経くんを助けたのはまぎれもなくあの時屋上にいた全員で、みんながその一人だったからです。
帰路途中、みっちゃんが先頭に立って歌を歌いました。それは義経くんが今朝、口ずさんでいた「聖者の行進」でした。
「ごっえんだっせーっ!ごっえんだっせーっ!五円だせー、おー、マーチンにーっ!」
マーチンてだれ? とみんな思いました。